ピピ島
スポンサーリンク

先日のブログでは、僕がタイランドエリートに入会する以前、タイでどのような過ごし方をしていたかについて書いてみました。

 

スポンサーリンク

タイ英語留学時代(2007年前半~2008年前半)

上の関連記事にもある通り、日本で学校を卒業してからは、就職をせず(正確には就職出来ず)、タイに1年間の英語留学に出かけ、学校が発給してくれるEDビザを使って1年間をフルに過ごすことが出来ました。

記事にも書きましたが、この1年間は、貧しくても僕が人生で最も楽しかったと思える期間です。

 

そりゃあまだ若かったですからね~。

 

スポンサーリンク

日本帰国→コンサル会社設立

しかし、将来の財政の基盤がないのに、タイでいつまでも英語留学というわけにはいきません。

留学ビザは1年間しか有効ではないし、僕はまだ一度も働いたことがない身分です。

それに1年間のタイ滞在で貯金も尽きた頃です。

 

この時25歳、残金は100万円以下

 

というわけで、ビザが切れる2008年3月にはタイのコンドミニアムを退去し、日本の実家に帰国しました。

そして帰国後に真っ先にやったことは、医療機器に特化したコンサルティング会社の設立です。

親の人脈をフル活用

どうして医療機器専門のコンサル会社かというと、父親が医療機器メーカーで長年働いていたからです。その当時、ある分野の医療機器で世界最大シェアを誇る外資系企業(米国市場上場)の日本法人の社長を務めていました(その後転職)。

医療機器というのは非常に狭い業界です。父ほどの地位と経験があると、同じ業界内なら大体どこにでも顔が効き、その人脈だけで独立しても商売が成り立つくらいの強みがありました。

 

でもそれをやったら利益相反で会社から訴えられてしまいます。

 

そんなわけで、父はこれまで通り大企業で社長を続けることに。

代わりに僕が資本金10万円でコンサルティング会社を作り、医療機器分野で市場調査をしたり、医療機器メーカーの海外進出を支援する事業をスタートした次第です。(正確にはもっと複雑なのですが、事業の説明は割愛します。)

社長は僕で、父は名義上は会社と全く関係なく、仕事の受注は父のビジネスパートナーであるシンガポールの法人を通して行っていました。

 

コンサルティングの業務を実際に遂行していたのは、父の元部下などの脱サラしたフリーランスの方(法人・個人含む)たちです。

 

経験のない僕がコンサルタントを出来るはずがありませんからね。

 

WEBの学校に通う

父親のネットワークを使えば、それだけでもある程度のコンサルティングの仕事が取れます。

でも僕は最終的には父親に頼らずに会社を運営したいと考えました。親の口利きに代わる、自分オリジナルのチャネルを作ろうというわけですね。

そこで、渋谷にあるWEB制作を教える専門学校に半年間ほど通いました。WEBマーケティングを学ぶためです。

この学校で習得したのは特段高度な技術ではなく、あくまでHTMLやCSSを使ってホームページを作る方法です。

 

 

話を戻すと、WEBの学校に通い、身に着けた技術を使い、上記の自分の会社のHPを立ち上げたわけです。

 

別に全然難しいことではないですよね。

 

自分の会社のHPを作りたい!

僕と同じコースを受講していた20代前半のフリーターの女性も、「お母さんが経営するお花屋さんのHPを作りたい」という目的で勉強に来ていました。

生徒さんはみんな僕(当時26歳くらい)よりもさらに若く、手に職を付けて就職しよう、あるいは上記の女性のように身内の商売を助けるためにWEBを習おうという目的の方が多かったですね。

僕もそれと同じように、自分の会社のHPを作って、父親の紹介に加えて、自分のHP経由のお客さんという二つの販路で商売を大きくしようと考えたわけです。

すぐには結果は出ませんでしたが、実際に僕が立ち上げたHPからも2年くらいしてからは、月に何件か問い合わせが来るようになりました(後述)。

スポンサーリンク

リーマンショックで虫の息(2008年後半)

ところが、僕がWEBの学校で一生懸命勉強しながら、立ち上げたばかりの会社の運営をしていたころ、不運にもリーマンショックが勃発しました。

 

会社設立が2008年4月

 

リーマンショックは同年9月というものすごいタイミングです。

リーマンショックの影響は僕の事業にも少なからず影響を与えました。

まず、このころはまだ僕の会社のHPは出来ておらず、マーケティングの基盤がありませんでした。

会社の売上は、父が関与している(父が30%株主)シンガポールのコンサルティング会社からもらう仕事、または父個人の人脈で依頼を受けた仕事のみで上げていました。

でも、リーマンショックでそれもピタッと止まりました。

それだけならいいのですが、同時期、シンガポール法人で中心人物だった株主の一人(中国人)が病気で亡くなったのです。

大事な後ろ盾を失う

不幸はそれだけではありません。世界大不況と同時に、仕事をくれる親元の会社のトップが病死したわけですが、それにより、僕の会社以上にシンガポール法人の方が雲行きが怪しくなったのです。

シンガポールにもう一人いたスウェーデン人の共同経営者も、自分の家族を養っていかなければならず、ついに会社を去る決断をし、2009年に入ってすぐに別の外資系企業に転職してしまいました(この方は自営業から会社員になってしまったわけです)。

僕自身はこの頃はまだ上述のWEB学校でHPの作り方を学んでいただけなので、自社のHPはまだ作れず、仕事をくれていたシンガポール法人は開店休業状態に陥り、こうなると唯一使えるのは父親の人脈からもらえる日本での仕事だけです。

父も自分のことで精いっぱい

でも、リーマンショックほどの危機が起これば、父も自分が働いている会社をつぶさないために悪戦苦闘しなければならず、僕の会社に構っている暇などありません。

リーマンショックから翌年には僕もWEBの学校を卒業し、手作りレベルの会社のHPは何とか立ち上げることは出来ました。

しかし、HPを作ったからと言っていきなり仕事が入るほど世の中は甘くありません。

(僕はHPがあればすぐにそこそこの仕事が入ると思っていましたが、今思えば本当に考えが甘く、世間知らずでした。)

タイに再留学(2009年6月~2011年4月)

このような状況ですので、僕が人生最初に作った会社はもう完全に挫折したかに見えました。

ちなみにリーマンショックや、その前年に起こったパリバショックのおかげで、個人名義で初めていたFXでは大きな損失を出しており、事業も投資も何をやってもうまくいかない最悪の状況でした。

景気が戻るまでタイで寛ごう

ここで考えたのが、会社を残したまましばらくは日本を留守にして、タイで気分転換をすることです。

経済が落ち着けば仕事も入りはじめるかもしれません。

ピピ島

タイ語留学中に訪れたピピ島

 

自分で立ち上げた会社のHPも、タイに居ながら本などを読んで独学し、リライトしてブラッシュアップしていき、軌道に乗ればそのうちフォームから問い合わせが入って仕事が出来るのではないかと期待したのです。

実際はさっきも書いた通り、そんなにすぐには仕事は来ず、会社が再起動するにはさらに1年半を要しましたが、結果的にその間はタイでのんびりとバンコクの学校でタイ語を勉強したり、WEBを独学しながら再起のチャンスを待つことが出来ました。

元手のかからない業態に救われた

本来ならここで会社が潰れるわけですが、幸いにも僕の会社はコンサル会社なので元手は一切かかりませんからね。

かかるとすれば、毎月払うWEBのサーバー代1600円、バーチャルオフィスの月2万円、年に一度の法人都民税均等割額の7万円、そして税理士への報酬(当時年間8万円)くらいです。

僕の生活費に関しては、まあ、タイに居る間は、親からは月30万円程度の仕送りをもらっていたので、オンヌットやラチャダーの家賃1万バーツ程度の安アパートを借りながら、タイ学校に通い、貯金もできるくらいだったので、それほど不自由はありませんでした。

 

親には救われてばかりです

 

1年9か月間のバンコク長期滞在

詳細はまた後日書きますが、このタイ語留学時代は、当初は6か月くらいの期間で計画していましたが、終わってみれば1年9か月という長期に及びました。

これだけ長期でタイに滞在するためには、当然ビザが必要になります。

language ExpressでEDビザ取得

そこでEDビザを取得するために通っていたのが、プルンチット駅前にあるlanguage Expressという白人向けのタイ語学校です。

当時27000バーツのグループレッスン授業料(週2日、4時間)を払うことによって、1年間のタイ語留学が出来ました。

 

注意
現在はビザ規制が厳格化され、EDビザを取得するには基本的に週に4,5日、さらに1日4,5時間の授業を受ける必要があります。

 

ただ実際は上述の通り1年9か月近くタイに居たので、残りの期間はノービザ、またはビエンチャンで取得した観光ビザでやり過ごしていました。

僕が住んだ安アパート

その間にバンコクで住んでいたのは、以下のアパートメントです。

 

  1. KVマンション:スクンビット・ソイ81(オンヌット駅)→家賃8000バーツ
  2. シタラプレイス:ラチャダー・ソイ3(ラマ9世駅)→家賃10400バーツ

 

 

スポンサーリンク

Twitterでフォローしよう

おすすめの記事